第19章 初吻/First Kiss(2/2)
薄い雲が晴れた空を静かに流れている。
初夏の昼下がり、幼いリョータは兄と一緒に海沿いの駅でバスを待った。
二人の女子高生はふざけながら通り過ぎ、子猫のようなリョータは、彼女たちの会話から一つの言葉を拾い上げた。
「ねえ、そーちゃん、ファースト・キスって何ですか」無邪気な好奇心に満ちた目で、隣の兄に尋ねた。
ソータはちらりと彼を見て、それから顔をしかめ、少しばかり気まずそうに目をそらした。
「 ... ... 初めての口づけです」
そう答えたとき、ソータの顔はうっすらと紅潮していた。
「え、口寄せ? 」リョータは驚いたように目を見開いた。「こんなふうにキスしていいのか」
「は、はい」いつもの自信たっぷりで張り切っている様子とは違って、今度はソータが少し口ごもりながら、苛立たしげに答えた。
「そーちゃんは、たいてい、俺の顔にしかキスしないからな」とリョータは言い添えたが、口を少し尖《とが》らせると、その顔はいっそう子供っぽく見えた。
「ええ、好きな人とキスするんですよ」ソータは口元を歪め、おざなりに言った。
「好きな人って、あたしとそーちゃんじゃだめなの」
兄の表情が明らかに固まり、彼を見る目つきもいつもと違うものになっているのがわかった。
「わたしはーー」
「そーちゃんは... ... 俺が嫌いか」リョータは小さな顔を仰向け、真剣な眼差しでソータを見つめた。
「まさか... 」
ソータは平静を装って答えたが、次の言葉を隠すことはできなかった。声が震えていた。「俺は、俺の大好きな人は、ずっと、リョータからだった... 」
「え」予想以上の答えに、リョータはきょとんとソータを見返した。
「わかった、わかった」
呆然《ぼうぜん》としている間に、ソータは周囲を見回し、誰も通りかからないのを確認すると、リョータの柔らかな巻き毛に指を通し、揉《も》みしだいた。それから腰をかがめ、リョータの頬《ほお》の辺りで、大きく息を吸った。
「俺も、リョータと同じだ」と、妙にしわがれた声で呟いた。「それも... 初めてだよ... 」
そう言って、リョータの幼い顔を撫《な》で、キスをした。
リョータは、その瞬間、微動だにしなかった。
風が少し吹く。
海の生臭《なまぐさ》さは薄い。湿った感触は空気の中にも、ソータと彼の唇の間にもあった。
日差しの匂いとソータの匂いが混ざり合って鼻の奥に入ってきて、強く覚えさせられた。
唾液は甘く、蜜糖のようだった。ソータの舌先が、彼の唇の上で試しにうなずくと、また引っ込んだ。
急に心臓が早鐘を打ち、全身がかすかに熱くなった。
それからソータはキスを彼の頬に移し、しばらく擦ってから離した。
キスを終えたリョータは、呆《あき》れたようにソータを見た。
「すごかった」そこから思い出したように、リョータが声を出した。「そーちゃんの縁談は、今までのものとは違っていた」
「ファースト・キス素晴らしいですね!」
「車が来たぞ」とソータは言ったが、リョータのような興奮した様子はなく、意味ありげな視線を投げかけると、踵《きびす》を返して、今着いたばかりの車に向かって歩き出した。
「ん、ちょっと待って、そーちゃん」
国中入学第七日。
放課後、周囲のクラスメイトたちがぞろぞろと教室を出ていく中、リョータは席に残り、まだ顔に残っている傷に触れた。
こんな時間に校舎を出ると、またあの嫌なやつらに出くわす。
これ以上殴られたら、母親はまた自分に失望するだろう... ...
悩んでいる。
クラブ活動も行きたくなくなったので、時間を潰したら寝ればいい。
そんなことを考えながら、彼は机に突っ伏し、ぐっすりと眠った。
目が覚めたときには、もう日が暮れていた。彼はあくびをして、まだ明るいうちに前列の女子学生の机の引き出しに、美しい巻き毛の女の子の表紙の雑誌が入っているのを見つけた。
「恋愛雑誌か。女の子はこういうのが好きみたいだけど... 」
彼は雑誌を引き寄せ、ページをめくった。
「星座の相性分析……桃運指数……退屈……ん?ファースト・キス年齢調査」
そのコラムが気になって、彼はページをめくる手を止め、一行ずつ目を通した。
「バカそーちゃん、愛の愛だけがキスをすることができます...…」途中まで見て、思わず小声になったが、言い終わらないうちに、ソータの言葉を思い出した。
【俺の大好きな人は、ずっと、ずっとリョータだった... ...】
そのときになってはじめて、彼ははっと気がついたように、目頭が熱くなり、涙が止まらなくなった。
「う、うう... 」
日没、誰もいない教室で、リョータは机に突っ伏し、涙を腕に伝わらせていた。
END